省察的実践者を育てる! ショーンの「省察的実習」の視点

学習理論

今回は、ショーンの省察的実践者の教育 : プロフェッショナル・スクールの実践と理論 についてまとめたいと思います。省察的実践者をどのように育てるか、教育に役立つ視点が満載です。元々はひとつの著書ですが、こちらは2017年に日本語に翻訳されました。

省察を支援する「省察的実習」には3つの視点があります。今回はこの3つの視点について簡単にまとめます。なるべく実践をイメージできるようにまとめますので、教育や学習の参考になれば嬉しいです。

結論からいうと、学習者を支援するためには自身の省察を言語化することが非常に重要です。これは普段の実践から<知>を生み出していくのとは別の能力になります。練習あるのみです!

ついてきなさい!

省察的実習の1つ目の視点です。一番基本の形で、誰もがやっていることだと思います。

まずは、状況に飛び込むことを促します。誰でもやってみないとできるようになりません。例えばリーダーへの報告のやりとりも、思考発話などがされていれば、後輩のお手本になっています。後輩はそれを模倣して試すことができます。このようなやりとりを通して、先輩と後輩は使っている言葉を共通の認識にしていきます。

このときの省察ははしごの形で表現できます。報告の場面だと、

  1. 報告すること自体そのもの、行為そのものが省察になっている。
  2. 私だったらこうする(思考発話を使う)などアドバイスをする。
  3. なんで後輩はあんなこと言ったんだろう。なんでリーダーはあんなこと言ったんだろうと自問し相手に問う。(こっからは私もまだ意識しないとできないです。)
  4. お互い同じ理解になったのか、それを検証したか。伝わっていないと感じたら、分かってもらえるように新しい伝え方を模索する(例えば、経過観察って言った時の認識は本当に同じ?)

省察がうまくいっていないと感じたら(使っている言葉の意味が共通の認識になっていないと感じたら)はしごを登ったり降りたりしながら、確認し合う。お互いのコミュニケーションも省察の対象にすることがポイントです!

わかっていてもだんだんうまくいかなくなる・・・学習拘束

この概念を知っているだけで、学習者との関わり方がすごく変わると思います。

学習拘束は学習者と学習支援者が攻撃と防御の関係になることをいいます。また、学習拘束のひとつに、言われたことを唯一の正解と捉えてしまう過剰学習があります。

例えば、後輩の嘘をつく、無難なことをいう、怒られているのに笑うなどの反応はこの学習拘束の状態になっている可能性があります。先輩はこのような場面で、わからないからもっと教えようとしてだんだん声が大きくなる、口調が強くなるかもしれません。このような場合、学習拘束はさらに進んでいきます。その他にも、後輩がこの人からは教わりたくないと思っている場合や先輩が自分を超えられないようにあえて教えないなどの場合も、学習拘束の場面として捉えることができます。さらには、答えを教えて欲しいと思っている後輩と、自分で考えて欲しいと思っている先輩のやりとりなどが思い浮かびます・・・・。

この拘束を解くには、お互いのコミュニケーションに焦点をあてることが大切になります。

最初から学習拘束にならないやりとり 協働実験

協働実験とは、となりに座っているような関係をいいます。

例えば、皮膚が脆弱な患者さんのテープの固定です。病棟で使うテープも貼り方も決まってるかもしれません(変えたら怒られるかも・・・)。しかし、その患者さんがあまり動かない人であれば、テープの枚数を減らすこともできるかもしれません。そのような後輩の意図を汲み、一緒に取り組んでみる。これが協働実験です。

これには、患者さんのために組織の文化や慣習などから少しはみ出してみる勇気が必要です。また、それを肯定し応援して評価するリーダーの姿勢が求められます。

鏡のホール

これまでは、2人だけのやりとりでしたが、鏡のホールは複数人でのやりとりの中での省察になります。

カンファレンスなどで、それぞれの省察について話してみたり、それぞれの立場から観察することで省察を深めることができます。

私が特に興味深いと思ったのは、3つ目の相互作用の類似性です。例えば、カンファレンスや報告が形骸化(型にはまった報告のような形になっている)していると、実践も形骸化してるかもしれない。といった具合です。

以前、退院支援カンファレンスを入院してから7日目に必ず行うという決まりがありました。そのカンファレンスでは、いつも退院支援に必要な情報が抜けてしまっているので、カンファレンスで話す項目を話し合って決めました。最初はよかったのですが、時間が経つと項目に合わせてみんな似たような内容を話すようになります。

例えば、治療のゴールという項目に対して、みんな口を揃えて「合併症なく経過するです。」といいます。「いやいや手術してないよ・・・。」「合併症のある治療や検査してたっけ?」などのやりとりをした記憶があります。今思えば、学習拘束としての一面もある気がします。私の顔色を伺って、無難なことを言っていたのかもしれません。

このようなカンファレンスが行われていると、きっと実践においても「治療のゴール」について深く考えることはないんだと思います。悲しいです。このような状況も鏡のホールとして捉えることができます。

昔、クリティカルケア看護学会で「プロトコールを導入すべきか否か」というセッションに参加したことがあります。今考えると、ここでいうプロトコールも質を保つための側面がある一方で、ケアが形骸化してしまう危険性も孕んでいるのだろう思います。

まとめ

今回は、ショーンの省察的実習の3つの視点についてまとめました。

普段の学習支援に役立ちそうなことはありましたでしょうか?

この省察的実習の視点をみると、省察(せいさつ)って内省(ひとりで行うニュアンスが残る)とは違って、相互作用なんだなぁとしみじみ思います。翻訳すごい。

他にもこの著書には、省察的実習での学習の評価についてや、学習拘束を解くためのモデルなど、教育に役立つ記述が盛りだくさんです。読むのは大変ですが・・・興味がある方は是非読んでみてください。

最後にショーンは、技術的合理性に基づいた大学や大学院のカリキュラムについて批判しています。専門職教育を行う上で、省察的実習をどのように大学教育に組み込むかという問いに答えようとしています。

これについて私は、自分なりの答えを出せずにいます。私は大学院で看護学という学問の面白さや可能性を感じました。例え看護師にならなくても、大学で学ぶニーズを捉える力やコミュニケーション能力は社会でも通用すると思います。看護学を専攻したからこそ、就活に役立つ未来が来るようにしたいなとも思いました。しかし、現状では国家試験の合格率などが大学や専門学校などのウリになっています。学問としての看護学教育と、専門職としての看護学教育の両方の視点が求められるのでしょうか?どっちつかずになっているような気もします・・・。論理がめちゃくちゃですが、なんとなく、こんなことを考えました。

参考文献

Schön, D. A. (2017). 省察的実践者の教育 : プロフェッショナル・スクールの実践と理論  (柳沢昌一・村田晶子訳). 東京:鳳書房. (原著発行年1983).

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